イエス様の言葉は、「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです」と語る。完璧な人が幸いだとは言わない。すごく立派な人だけが祝福されるとも言わない。神様の心にかなう人は、失敗がない人ではなく、神様の臨在に飢え渇いている人だと示される。
モーセは人を殺した人だった。怒りを抑えきれず、神様に反対するような歩みもあった。でもモーセは、神様の祝福よりも神様ご自身を求めた。神様が「天使を送る、祝福する、でも一緒には行かない」と言われた時、モーセは「あなたが共にいてくれないなら行かない」と言った。神様の臨在そのものが、モーセにとって一番大事だった。
ダビデも完璧ではなかった。姦淫を犯し、殺人までした人だった。それでも神様の御心にかなう人と呼ばれたのは、神様に対する渇きがあったからだった。喉が本当に乾くと、人の頭は水のことしか考えられなくなる。そのように、ダビデの心は神様の臨在を求めていた。
義に飢え渇くとは、ただ正しい行動をすることだけではない。神様のように正しくされていくこと、自分自身が作り変えられていくことだ。イエス様は、行動だけを少し整えるのではなく、人の決断、思い、欲望そのものを変えていく。救いは無償で与えられる。でも神様との親しい交わりには、時間を注ぎ、山を登るような対価を払う必要がある。
飢え渇きは悪いサインではない。むしろ、神様に対して飢え渇いているなら、それは命があるサインだ。問題は、人が何に飢え渇いているかということだ。砂糖を求め続けると、さらに砂糖が欲しくなるように、ゆがんだものを食べ続けると、心もそれを欲しがるようになる。
神の言葉は、ただ読むものではなく食べるものだ。雑誌みたいにページを進めるだけでは足りない。神の口から出る一つ一つの言葉を受け取り、読む前に心を開いてくださいと祈る必要がある。霊的な食べ物を食べなければ、霊的に弱っていく。
コミュニティは人を形作る。周りにいる人が好きなものを、人もだんだん好きになっていく。だから、イエス様についていきたい人、自分を正しい道に促してくれる人を選ぶ必要がある。鉄が鉄を研ぐように、神様は少し痛い言葉を通しても、人をシャープにしてくださる。
偶像は飢えさせる必要がある。餌を与え続ければ、偶像は心の中で大きくなる。中国の飢饉で食べられた白い粘土のように、偶像は一時的にお腹いっぱいに感じさせるが、栄養はなく、心をだましていく。お腹いっぱいなのに餓死するような状態から、人は本当の食べ物であるイエス様へ戻される。
天の御国は、畑に隠された宝のようなものだ。宝を見つけた人は、喜んで持ち物を全部売った。なぜなら、その宝の価値が、持っている全部よりはるかに大きいと分かったからだ。イエス様の臨在がその宝であり、その価値が分かる時、握りしめていた偶像を手放すことは簡単になる。
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Key Takeaways
- 1. 飢え渇きは命のサイン 神様への飢え渇きは、霊的におかしくなっている印ではない。むしろ、死んでいない心が本当の食べ物を求めているサインだ。問題は渇きがあるかどうかだけではなく、その渇きが何に向いているかで決まる。 [29:48]
- 2. 神の言葉を食べる 聖書は、ただ読み終えるための本ではない。神の口から出る言葉として受け取る時、心の中に栄養が入ってくる。読む前の祈りは、情報を得るためではなく、作り変えられるために心を開く行為になる。 [34:05]
- 3. 友は欲望を形作る 人は、周りにいる人の方向へだんだん似ていく。だからコミュニティは、ただ楽しい場所ではなく、心の食欲を育てる場所になる。優しいだけでなく、正しい道へ促す人は、神様が送った研ぎ石かもしれない。 [36:03]
- 4. 偶像には餌を与えない 偶像は、心の空腹に対してすぐ効くような満腹感を約束する。でもそれは白い粘土のように、腹をふくらませても命を養わない。神様への飢え渇きが薄い時、まず必要なのは、偽物の食べ物を断つことだ。 [45:42]
- 5. 宝を見れば手放せる 畑の宝を見つけた人は、損をした顔で売ったのではなく、喜びを持って全部を売った。イエス様の臨在の価値が見える時、手放すことはただの犠牲ではなくなる。偶像より大きな宝を知る心だけが、本当に自由に手を開ける。
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